脇本商事の歴史

◆脇本仕立店の歴史 その ]橡椹杜店のはじまり

脇本は明治32〜33年頃、福井県坂井郡春江村から北前船に乗り北海道小樽市へやってきた。
船でやってきたとはいっても、当時は命懸け...
流れ着いたといったほうが真実だったようだ。
当時小樽はロシアとの交易が盛んで、樺太に生活物資を送る船が小樽から出ていた
道内の穀物が小樽に集まり、そのため石蔵も多く、銀行も倉荷手形を出すなど証券も発達していた
繊維といえば、富山県の戸出からきたもの、近江からきたものの系統に分かれ、その下請けとして縫製業も発展
そのようななか、初代脇本豊吉は昭和4年、兄弟の支えがあって東京の裁断学校へ勉強をしに行く。当時、小樽からその勉強をしにいったものは脇本豊吉の一人と聞きいている
そして創業者脇本豊吉は東京の裁断学校を出て仕立店で働いたのち独立し、脇本仕立店をはじめた


写真上段右から三人目が脇本豊吉

◆脇本仕立店の歴史 その◆]橡椹杜店の様子

写真にあるのは昭和15年当時、脇本仕立店は小樽市住之江町にあった

時代は戦時に備え繊維品が統制配給になったころ。
脇本はデンプン袋を活用した代用品の軍手を製造し商品として売り出す。
配給統制になって一番困ったのは農民や労働者。そこで軍手や地下足袋にいち早く目をつけ、使い古した袋を洗いほどき糸にしてまた製品にする。
軍手や地下足袋、作業着、敷布などは代用品でも大変喜ばれた
職人が器用な人で代用品の軍手を製造する小道具を発明しそれは戦後まで使われていた

◆脇本仕立店の歴史 その 脇本仕立店と時代の様子

昭和9年4月ごろ
場所は山ノ上町 屋号は「丸ウ」 
当時十坪ほどの仕事場に男女十名位(兄弟子4人、職人1人、女工4人、女客1人)が働いており、学生服を縫製していた。 主人脇本は30歳、内儀23歳、それぞれ、「大将」「姉さん」と呼ばれていた。


※写真は裁断包丁 主人が使っていたもの

当時の小樽の縫製の様子
小樽の仕立て屋は、ミシン掛けとアイロン掛けがペアになっていて、主に学生服や労働シャツ、乗馬ズボンなどを作っていた。
当時の労働時間は朝の7時から夜の7時までで、昼休みは一時間。そのほか内弟子は夕食後に二時間位の残業がある。
休日は月に二回で1日と15日。昭和十年の後半にはl休日が第一日曜日と第三日曜日に変わっていく。
当時の給料は、丁稚奉公で一カ月五十銭。当時の理髪料が二十銭、銭湯五銭。職人の日給といえば 一円五十銭。女工アイロン掛けで最高一円三十銭。入ったばかりの女工十二歳で日給三十銭といったところ。鋏一丁をサラシに巻いて日数を決めて仕事のたくさんある所を探して歩く職人もいた。
腕の良い職人だと十日も働けば教師の一ヶ月分の給料にもなった。
当時の小樽は縫製の生産で東京以北最大といわれた。

昭和9年10月ごろ
脇本仕立店は引越しが多く昭和9年から6年間ほどで5回の引越しをする。
そのころ移転してから穴カガリの機械が二台増えた

昭和11年ごろ
当時の山の上町には仕立て屋がたくさんあった。業者間の引き抜きが盛んで脇本仕立店も人が入れ替わる。従業員は十人位でコール天の乗馬ズボンなどが中心の仕事をしていた。昭和10年ごろから女子セーラー服が広まっていった。

昭和11年2月26日 二・二十六事件
この頃から服装が急激に変化し、洋裁が盛んになる 和服から洋服に、既製品の加工が盛んになってきた

昭和12年秋
入船町へ引越し この界隈も仕立て屋が多かった 脇本仕立店は引越し当時六名位
当時脇本名物の裁ち板が現れた。業者仲間では有名でカツラの木でできていて、巾三尺長さ六尺厚さ五寸以上あった。それは主人「脇本豊吉」が独立したとき、兄(馬車屋)が贈ったもの

当時の時代背景
戦争(日中戦争)の影が繊維業界にも及び始める 繊維業界は開店休業の状態。卸問屋も統制組合をつくり組合も大手の工場も、軍の仕業に切り換えていった
国の命令で業種を問わず、若者は夜間、青年学校に通わせることになり勉強は軍事教練が多かった

昭和13年ごろ
昭和13年後半から縫製業界の情勢が急変 脇本仕立店も険しい時代を生き残ろうと懸命
大手業者は廃業、転業。 お金が得れると満州へ行く者もいた。 一部の工場では女学生のセーラー服で多忙

当時の時代背景
国を挙げて国家総動員の戦時体制に入り召集が目立ち始める。勤労動員といって平和産業についているものは紙切れ一枚で動員された。
繊維業界の営業もだんだん難しくなってきて転職者が増え、若者は勤労動員、召集で次第に姿が少なくなっていった

昭和14年ごろ
脇本仕立店の引越し 住ノ江町の協会病院の通り 縫製業界はますます苦しくなっていく 小樽の街に大小合わせて百軒近くあった業者も半分くらいになっていった

昭和15年ごろ
前年の秋ごろから仕事が増え活気があった 統制配給になってから業者が半分以下になったので 営業を続けている店に仕事がまわってきた 脇本仕立店は男二人、女工四人 内職も増えた
脇本仕立店では澱粉袋を活用した代用品の軍手を製造していた 繊維品が統制配給になって一番困ったのは農民や労働者で脇本は軍手や地下足袋にいち早く目をつけ、手袋を商品として売り出すと人気製品になった。
新品の澱粉袋を買ってきて糸をほぐして続服、ジャンバー、敷布などをつくり染屋さんで国防色に染めるなどした
使用済みの袋にはたいてい穴があいているけど、手袋のように小さい物はあまり苦にならず無駄がなかった
アルバイトの主婦はお金よりも澱粉を持って帰るのが嬉しかった様で沈殿作用があるので水に洗い流せば真白粉ができる。食糧難の時代に喜ばれた

当時の時代背景
戦争の影がいよいよ色濃くなってきた 小樽の業界第一位の大手が軍需工場として軍服を製造していた また軍部に戦闘機を一機寄付していた

昭和16年ごろ
澱粉袋で手袋、足袋、作業衣などいろいろ物をつくっていた
当時仕立屋と注文服の洋服屋があった 仕立屋は早くて安い、これが一番だった
背広から国民服に変った時代で、洋服屋も多忙だった
昭和16年12月8日太平洋戦争開戦

昭和17年ごろ
繊維業界にも戦争の影が及んでくる
脇本のグループも高村というところに集まって軍隊の仕事をすることになる 一方で脇本の友人だった別のグループも山ノ上町上田に十二・三軒ずつ集まり軍需品をやるように決まっていた
昭和17年、18年になると小樽の工場、農村といわずほとんど女ばかりになった
女であっても女学校を出た者などは徴用が来る 軍需工場にいれば徴用がかからないので、繊維縫製の工場は女ばかりだったという

昭和18年ごろ
大きな業者はほとんど合弁し、軍需品一色になる
業界では合同や合弁を繰り返していたなか、脇本や相変わらず澱粉袋で作業着、敷布などの日用品を作っていた  当時、綿製品は本当に無くて、澱粉袋を洗濯し、穴の空いたところを直してそれで敷布などをつくっていたのだが、そんなものでも本当にみんなに喜ばれた




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